今でもロシアを訪れるにはビザが必要なようですが、ソ連時代、ビザを取るのは簡単ではなく、私達も一部の乗員だけが取り、一年間モスクワ経由のヨーロッパ線ばかりを飛びました。
私は1991年のソビエト連邦崩壊以前しか知らず、今と比べる事が出来ないのですが、当時は旅行者にも様々な制約がありました。
ホテルの建物は帝政時代の立派な建築でしたから、天井が高く、装飾もふんだんに施され、とても重厚で豪華なものです。
しかし、ゴットンゴットン動く木製のエレベーター、冬でもスチームの殆ど効かない部屋、お湯もちょろちょろしか出ない風呂場、お尻のあたりが陥没したベッド・・・ 全てが一時代も二時代も前です。
そして備品は、寝具からタオル、トイレットペーパーに至るまで全て、清潔ではありますが、きわめて質素です。
各階には家庭の台所のような一角があって、小母ちゃんが常駐しています。彼女たちは皆どっしりとした体躯に赤ら顔で、一見無愛想ですが親切です。
朝ご飯はそこでピロシキを食べたり、頼めば卵料理も作ってくれます。
ここでチャイと言えば、ジャムのたっぷり入った、ミルクを入れない紅茶の事で、銀やステンレスのホルダーをはめたグラスで出されます。
私は、サモワールと言う装飾的な湯沸かし器から蒸気の立っている、ここの雰囲気が大好きでした。
一階に大きなダイニングルームがあるのですが、メニューが少なく大変な無愛想、その上ものすごく時間がかかるので、乗員はあまり行きません。でも私はこの時代がかった、公式のレセプションでも開かれそうな雰囲気が好きで、良く一人で行ったものです。
皆はどこで食事するかと言うと、乗員が共同で使える部屋があって、そこで簡単なお炊事をしたり、日本から持って行ったものを食べていたのだと思います。
兎に角、街に出ても私達にとって当たり前のカフェやレストランなどない時代ですので、不満を言いつつも色々工夫して結構楽しんでいたのかも知れません。
11月から3月までは、悪天候のために飛行機が離着陸できない事が頻繁にありました。
そんなときは
東京やヨーロッパの始発地で待機、
途中まで来て引き返し、
東京ー広島くらい離れたレニングラード(今のサンクトペテルブルク)へ向かう、
幸運なら、街から程近いVIP用の空港・ブヌクボに着陸して待機、
そして既にモスクワにいる飛行機や乗員は、ホテルか空港に足止めです。
いずれにしてもお客様は疲労困憊の上に、予定が狂う訳ですから大変です。
数日滞在するだけの私達乗員ですが、一年間毎月となると条件的には大変な路線でしょう。けれど私にとってモスクワは、恐らく最も詩情を掻き立てられる都市だったと思います。
四時ごろには暗くなり始める晩秋、毛皮の帽子をかぶった紳士たち、ネッカチーフで頭を覆った婦人たちが、霙の中を前かがみに家路を急ぎます。
そして、固く凍てついた大通りに、延々と軒を連ねる石造りの古い建物・・・
記憶の中では、全てがモノクロームの世界です。
けれど五月!
一斉に若葉が芽吹き、アカシア、ライラック、たんぽぽが咲き乱れ、頭上には青空があったことを初めて思い出します。
そして九月!
蛇行するモスクワ川に沿って続く遊歩道。その白樺並木が見渡す限り金色に輝いて、その下を歩いていた私は、我に帰ったら踊りながら飛跳ねながら走っていたことがありました。
一般の庶民が外国人と個人的に親しくなる事が許されない環境でしたから、彼ら彼女らがどんな感情で生活しているのかを知ることは出来ませんでした。けれど、例えばホテルのフロント係りや店員、ウエーターなど、自分の通常の業務をこれ以上ないほど無愛想に行っている人たちが、ほんの一言で、親切なおじさん、おばさんに変るのです。
私が初めてみる植物の枝が花瓶に生かっているのを見て、「ステキね、何て言う実ですか、」と話しかけると、言葉は通じなくても、あなたにあげると、惜しげもなく壷から出して持たせてくれるのです。
また、お風呂場に備え付けのガラスのコップを壊してしまった事があるのですが、メイドさんを呼んで床の破片が危ないし、ごめんなさいね、と言うと、大丈夫大丈夫と言ってさっさと片付けて、私が怪我しなかったか心配してくれました。備品は全てしっかりと管理されていて一つでも無くなると大変だと聞いたことがあったのですが・・・
下の写真は1976年のものです。
改装中のプーシキン美術館
当時、おびただしい数の巨大な像が薄暗い部屋の中に所狭しと置かれ、本来ならば
明晰なる青空の下に躍動しているであろうギリシャ、ローマの神々や英雄たちが気の
毒に思えました。
でも今ではこれらの学生達のためのレプリカも含め、膨大な数の所蔵品がすっかり整
備されで展示されている様子をインターネットで知ることが出来ました。
https://pushkinmuseum.art/museum/index.php?lang=ja
赤の広場に遊びに来ていた少年
あまり可愛いので、思わず駆け寄って写真を撮らせてもらいました。
あれから32年? 42年?
この国も世界も、劇的に変わりました。政治、経済、科学技術・・・
文化の壁は? 人種の壁は? 宗教の壁は?
そして、私達の心の中の善悪の壁、全てが取り除かれる日がいつか来ることを信じています。
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何ヶ月も何年もかかって一つの仕事遂行して行く職種から見たら、スッキリとして楽な立場でしょう。
しかし、それはとても恐ろしい事でもあります。物理的な到着時間までに、内容をも完結しなければならない。 後で考えてやり直す事が出来ない
と言う条件の下、安全に快適にそして定時に完結するか否かによって、お客様の満足度が天と地ほど違うからです。
ですからそれらが、殊に快適性が損なわれそうになった時、与えられた条件の中でいかに満足度高く内容的にも完結させるかが、仕事の醍醐味です。
快適性は、それぞれに感じ方の大いに異なる部分と、ほぼ客観的にどなたにも共通な点とあります。
例えば客室内の温度。世界中の人々の快適だと思う温度には、恐らく10度近い差があるのではないでしょうか。
それから例えば機内での暴力。最近公共交通機関内での暴力沙汰がとても増えていると聞きますが、これはどなたにも共通して大変不快であろうし、危険であります。
また、お客様の事情も随分違います。
早く食事が欲しい方、ただひたすら眠りたい方、嬉しくて誰かとおしゃべりしていたい方、一人静かにしていたい方・・・
大なり小なり、様々な事情や状況を超えてお客様に満足して到着していただくには、何と言っても良いチームワークが必要です。
機長と客室責任者の方針を全員が理解して共有し、呼吸の合った仕事を出来た日は、どんなに忙しくても、面倒な事柄があったとしても、乗員も本当に満ち足りて飛行機を降りる事が出来ます。
オフで仲間と リオデジャネイロ
未熟であっても、溌剌として活気ある新人。
経験に裏打ちされた落ち着きと度量を持った、先輩、上司。
技術と更に人間性において、全幅の信頼を寄せられる機長。
こう言うチームで毎回仕事が出来れば、本当に幸せです。
ホノルルでクルージング
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今の時代、どこの航空会社でも、女性の客室責任者や中年の女性CAなんて当たり前ですよね。
ところが1970年代半ば頃までは、特にアジアの航空会社では女性は若いことが売りでした。
最長5年しか飛べないとか、29歳までとか、結婚したら飛べないとか…
その頃私も、才色兼備のベテランのお姉さま方が、昨日ラインに出て来た新人男性CAより下にランク付けされているのを、複雑な思いで見ていました。
しかし時代と共に女性の停年も5年延び、10年延びして、やがて夫あり、子持ち当たり前、昇格も60歳停年も、制度上は男性と同じとなったのです。
私達に昇格の道が開かれた頃、私も、「責任者を呼べ」とお怒りの客様から、「男を出せ」と言われ、同僚男性からは、「女がヘッドで何かあっても俺は知らないからね」と言われた時代がありました。
けれど、幸か不幸か女性がマネージャーでも責任者でも、そのこと故にトラブルがあったなんて聞いたことありません。
そして今、責任者が女性か男性かなんて誰も問題にしない時代に、フライトが安全で快適ならば良い時代になりましたね。
私も周囲のみんなに助けられながら、私が42歳、娘が3歳を過ぎるまで飛んでいました。
今年いただいた年賀状、私より少し後から入社して今でも飛んでいるかつての同僚からのものに、
「あと一年で停年です」、とありました。
きっと彼女も今では管理職で、忙しい勤務をこなしていることでしょう。
ああ~ そう言う時代になりました!
あと一年、毎フライトを大切に大切に、健康で楽しく仕事を終えてね! と心から思います。
]]>交通機関は暮れもお正月も稼動していますから、私達乗員もいつも年越しは何処かの空です。
ある年、オランダのアムステルダム滞在中に新年を迎えました。
大晦日は昼間からあちこちで爆竹の音が聞こえていましたが、夕方になるにしたがって激しくなります。そして真っ暗になると花火が上がり始めました。
真夜中に近づくに連れてその数が増えて行きます。
私は街の中心部から少し離れて、回りに高い建物のないところにあるホテルの、見晴らしの良い階に泊まっていました。
窓からの光景はプラネタリウムの様です。
家々の屋根や教会の尖塔がシルエットになって浮かび上がり、どの方向からも一斉に花火が上がるのです。
日本では、花火は、同じ方角から順番に上がるでしょう。ですから空じゅうに一度に上がる花火は初めてでした。
その晩の夕食は、ホテルの近くの小さなレストランで済ませました。
ウエートレスが申し訳なさそうに、「今日は8時で閉店なんです。いつもなら遅くまでやってるのに、ゆっくりしていただけなくてごめんなさい。」と言いながら、「家族で食べるために作ったんですが、いかが?」と、ナプキンに包んだりんごのお菓子を差し出します。
もちろん大喜びでいただき、部屋まで持って帰りました。
オランダの習慣では、年越しに、輪切りにしててんぷらの様に衣を付けて揚げたりんごを食べるのだそうです。
厳冬の空に上がる満天の花火。 ホテルの部屋から、一人見つめる女…
口には、輪切りのりんごのてんぷらを、しっかりとくわえて…
5~6年後にも同じところで年越ししましたが、もはや花火はちょろちょろしか上がらず、りんごのてんぷらも出ては来ませんでした。
家に帰ってから、まねして作ったものがこちらです。
これも若き日の思い出の味です。
作り方 りんごを輪切りにして軽く小麦粉をはたく。
卵で溶き、シナモンとナツメッグを入れた小麦粉の衣を付け、
多目のバターで焼く。
出来上がりに粉砂糖を振る。
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足元の水を見ると歩いて帰れそうなくらい遠浅です。しかしだまされてはいけません。ここの海底は粘土質の土壌ですから、立とうとすればずぶずぶと引きずり込まれて行き、自力で再び浮き上がる事は出来ないのです。
やはり帆を立てるしかないともう一度試みていると…
私の方に、二人乗りのサーフボードが近づいて来るのが、見えるではありませんか。
この日家族と海岸に遊びに来ていたフランスからの駐在員が私に気付き、ホテルのベルマンを乗せて助けに来てくれたのです
私のボードにホテルの人が乗り、私はフランス人のボードで浜辺まで連れて帰ってもらう事ができたのです
素晴らしい、快速サーフィンでの帰り道です。
ボードのしっぽにつかまってお尻から先を水に浸け、イルカに乗った少年のような気分で水面を曳航されて行きました。
…と、途中で濡れたボードからするすると手が離れ始めるのです。
今度は海の中に身ひとつで取り残されてしまいました
しかし、暫く行ってサーファー氏、急に軽くなった事に気付いたのでしょう、見事なUターンで戻って来て、私を海から引き上げてくれました。そして無事に浜辺に戻って来る事が出来たのです。
その日は金曜日、イスラムの国では金曜日は私達の日曜日に当たり休日です。海岸の監視員も休みだったため、もしこのフランス人一家が気付いてくれなければ、私はきっとペルシャ湾の藻屑と消えていた事でしょう。
そして日本でニュースになり、無謀でおろかな女として大きな顰蹙を買った事でしょう。
しかし、ホテルの従業員氏と言いフランス人と言い、惚れ惚れするような見事な帆さばきでした。(そう言えばホテルの人は水着ではなく、白いベルマンの制服のままでした!)
私の方はその後機会がなく、未だにマスターしていません。
教訓
1、ウインドサーフィンをする時は、充分上達するまでは壊れていないボードを使う事。
2、イスラム教の国で活動する時は、金曜日が休日であることを心得ておく事。
** アブダビ滞在中に描いた水彩のスケッチがある筈ですが、どうしても見つかりません。写真も残っていず、文字ばっかりで申し訳ありません。 **
]]>今日はアラブ首長国連邦に滞在した時の私的な経験をお聞き下さい。
1980年頃の南回りヨーロッパ線の中継地の一つ、アラブ首長国連邦の首都・アブダビ。就航便数が少ないため、必ず3~4日の滞在となります。比較的治安の良い街でしたが、それでも女性が一人で気軽に観光に出かけることの出来る場所ではありませんので、皆、毎日ホテルにたむろしている事になります。
宿は海岸に建つゴージャスなリゾートホテルです。ペルシャ湾に面してプライベートビーチがあり、ペルシャ湾を出ればアラビア海です。
食事は、毎日三食ホテル内の洋食のビュッフェのみ。
私はひがな一日水着のまま、プールサイドの芝生でごろごろして過ごしています。
太陽が大好き、食べ物は何でもOKの私には、夢のような4日間です。
けれど、日焼けがだめ、和食が恋しい仲間にとっては、耐えがたき時間なのです。
プライベートビーチにはお遊び道具が色々用意されていますが、観光地ではないので面倒を見てくれるインストラクターが居るわけではありません。
私は到着の翌日、同乗の操縦士に教わりながら、生まれて初めてウインドサーフィンをしました。そしてその翌日、教えてくれた彼は日本に戻る便に乗務して行ってしまいました。
ローマ行きの乗務まであと3日滞在する私はこの期間にマスターしてしまおうと、無謀にもひとりでウインドサーフィンの練習に出かけて行ったのです。
最初の5分はうまく行きました。
ところが少し強い風が吹き、すぐに帆が倒れてしまったのです。それからは、帆を立ててやっと立ち上がると再び風を受けて倒れ、また立ち上がるとまた倒れ……
帆の根元を受けるボード側の穴が壊れていて、しっかりと立てることが出来ない、要修理のボードだったのです。
それでも何とか岸まで帰ろうと、立てては倒れを繰り返している内に潮に流され、ふと見ると海岸は遥かかなたに遠ざかっていました。
漸く事態が自分の手に負えない状態になろうとしている事に気付いた私は、浜辺に向かって一生懸命手を振りました。
命がけで手を振っているつもりの私に、遠くの浜辺で誰かが親切にものんびりと手を振り返してくれました。
そうじゃないの~ 助けて~
足元の水を見ると歩いて帰れそうなくらい遠浅です。しかしだまされてはいけません。ここの海底は粘土質の土壌ですから、立とうとすればずぶずぶと引きずり込まれて行き、自力で再び浮き上がる事は出来ないのです。
さてさて、もとこさんの運命や如何に 後編に続く
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誰かに何かをプレゼントをして喜んでいただけるのは、贈った側も嬉しいですね。
フライト先で買ったお土産で、喜んでいただけた物を幾つか挙げて見ることにしましょう。
先ず、ライラックの花束です。
えっ?とお思いかも知れませんね。
今では家の近所でもいくらでも見ることが出来る花ですが、昔は札幌のライラック祭りとか、ヨーロッパの風景に出てくるだけであまり身近な花ではなかった様に思います。
少なくても私はヨーロッパでしか見たことがありませんでした。
パリのセーヌ川の中の島、シテ島では、週末ごとに花市場が立ちます。
ある時、出発前にこの花市場まで行き、抱えきれないほどライラックを買いました。無造作に新聞紙に包んでくれたのをそのまま家まで持ち帰り、その晩、夕食を兼ねてお馴染みのスペインレストランに届けに行きました。
レストランでは大喜びですぐに大きな壺に入れ、カウンターの上に置いて下さいました。そのお店の雰囲気にピッタリでしたので、レストランのご夫婦も私達も他のお客様も大変満足でした。
それからお菓子… 洋梨のタルトです。やはりパリです。
これも、今なら美味しいのが沢山ありますが、昔、本格的なフランス菓子などあまりなかった頃のお話しです。
やはり出発前に出かけ、前日から目星をつけておいたケーキ屋さんで大きな丸いタルトを買って来ました。これは近所に住んでいる友達のためです。彼は絵の勉強をする傍ら、フランス菓子にも関心があり、六本木のケーキ屋でアルバイトをしていたのです。
持ち帰ったタルトを他の友だちも交えて食べましたが、彼は、「こんなに美味しいお菓子は一生に一度しか食べられない」 と言ってくれました。
しかしその後、彼は絵の勉強をするためパリ行きを実現し、結局パリで菓子職人に転向してしまいました。
今でも洋梨のタルトを食べると、必ず彼の事を思い出します。
そしてもう一つはお誕生祝いのスプーンです。
自分の娘に、「おかあさんのところに生まれて来てくれて有難う」 と贈ったものです。
あら、これもパリですね。偶然ですが。
ヨーロッパでは幸せな出生の子供を、「銀の匙をくわえて生まれて来たような」 と形容するそうです。
それで、出産祝いに銀のスプーンは定番の様で、多くの銀食器の会社がバースデイスプーンを作っています。
柄の表には生まれた年月日、時間と身長、体重、裏には赤ちゃんの名前が刻み込まれます。
普通のスープスプーンより一回り小さいくらいですので、大人になった今もデザートスプーンとして丁度良い大きさです。娘はこれをほとんど毎日使っていますが、きっとお婆さんになても使ってくれるでしょう。
出産祝いで、生まれた赤ちゃん本人が生涯使える物って、あまりないですね。
表には生まれた時のデータ 裏には名前
娘のスプーン以外は、贈られた方々はもう覚えていないでしょう。
それで良いのです。
私の中には、彼らの喜ぶ顔が宝物としてちゃんと残っているのですから。。
私の在籍当時は新人であれベテランであれ、CA全員が個別に毎年一度、業務試験と実機でのサービス技量のチェックを受けなければなりませんでした。
チェックとは、
ある日フライトの為に出社すると、何の前触れもなく突然 「今日はあなたのチェックです」 と言われます。そして一人のチェッカーが、基地を出てから基地に帰って来るまで、一週間のフライトなら一週間ずっと、仕事の間私に付き纏うのです。そして様々な側面から私の仕事を見、評価するのです。
業務知識、サービス技量、お客様との会話、笑顔、他のCAとの協調性 etc.
そして、最後に講評を受けます。注意を受けたり、叱られたり、励まされたり … …
もちろんこれはサービス水準を保つためであって、これでお給料が上がったり下がったりする訳ではありません。ですから普段からきちんと仕事をしているならば、いつも自分がしている様にすれば良いのですが、やはり緊張します。毎年、もうそろそろかなと思うとちょっと憂鬱でした。
チェッカーはCAの部署の上司ですが、中には大変厳しい人もいます。厳しいと言っても理に適った厳しさは気持ちの良いものですが、理不尽な厳しさ(これは「厳しさ」ではなく、「いじわる」ですね)の人は本当にいやでした。
でも、あの頃より大人になった今考えて見ると、きめ細かく指導していただき、育てていただいていたのだと言う事に気づきもしました。
それにしても、物的商品の品質を保つ事も難しいと思いますが、人の手によるサービスの質を保つ事は本当に難しい事だと思います。
初めの頃はこの様に、一人づつのチェックでしたが、後には一編成全体のグループチェックになり、その後はどうなったのでしょうか?今でもチェック制度があるのかどうか、他のエアラインでも行われているのか分かりません。
何千人もCAが居るであろう今、こんなに手厚い指導は出来ないでしょう。そのための人件費もかかり過ぎますね、きっと。
古き良き時代だったのかも知れません。
ロイヤルサンセット 花言葉 古き佳き思い出
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
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どの航空会社であっても国際線の乗務員をしていますと、およそ毎月の三分の二前後は外食・外泊と言うことになるるでしょう。
滞在ホテルはもちろん各航空会社の契約した所ですので、自分で好きに選ぶ事は出来ませんが、ホテルの安全性と快適性が生活に大きく影響しますし、時には飛行機の運航の定時制や安全性にまで関わる事があります。
観光旅行でも、ホテルの選定一つで旅の楽しさが違ってくる事も多いですね。
今までプライベートな旅を含めて随分沢山の宿泊施設を利用しましたが、今回はそれらについて書いて見たいと思います。
幾つものレストランや宴会場、会議場のある大規模のホテルは、世界中のどこからでも簡単に予約でき大変便利ですが、私は小規模な個人経営のホテルやB&Bが好きです。
先ず大きなホテル、殊に近代的なのもには、いくつもある出入り口からレストラン、お店、会議場などの客や業者など、宿泊客以外に不特定の人が常に大勢出入りします。ホテル側がこれら全てを把握するのは無理ですし、死角もいくらでもありますから、公道と同じで落ち着きませんし、危険な事も多いのです。それに対して、客室数1から20とか30室の小さなホテルやB&B(Bed and Breakfast 一宿一飯!)は、入り口が一つで、常に鍵がかかっていて、個人の家のようにベルを鳴らして入るところが多いのです。ホテルの従業員数も少ないですが、お客を把握しているので、不審な人の入り込む余地がありません。
そしてこれらの小規模なものの中にこそ、ヨーロッパなら昔はお城や貴族の館、修道院だった所などの豪華なアンティックホテルがあり、アメリカなら大きな個人住宅やログキャビンなど個性的なものがあるのです。 2~3泊でも家一軒借りる事の出来るところもあります。
それらの多くでは本当に温かく質のよいサービスが受けられ、お値段は国際的な大ホテルより遥かに安いのです。
これらの情報を集めた本、例えば
☆Best Loved Hotels http://www.charmingsmallhotels.co.uk/
☆The Best Bed & breakfast amazon.com/Breakfast-England-Scotland-Wales-2006-2007/dp/0762739827
☆Charming small hotel guides http://www.charmingsmallhotels.co.uk/cgi-bin/articles.pl?id=551§ion=39&action=display
等が書店の旅行のコーナーで売られていますので、また来たいと思う国のものを次回の為に買って置くのも手です。また、各都市の観光局でも、これらの宿を紹介する有料、無料の小冊子が手に入ります。
と言っても現実には中心地の大ホテルに泊まらざるを得ない事も多いでしょう。その時の注意を、ご存知かも知れませんが二つだけ書かせて下さい。
*部屋に入ったら必ず備え付けの災害時のマニュアルに目を通すこと。そして非常口と消
火栓の位置を実際に確かめる事。私自身、二回夜中に火事騒ぎを経験しています。
*ホテル全体の公共のトイレには、女性は昼間でもなるべく一人では行かないこと。日本
の様に結婚披露宴がしょっちゅうあって、女子トイレがいつも女子で混んでいるのなら
安心ですが、海外ではあまりそう言う事はありません。しかもロビーやフロントなどか
らかなり離れた陰の方にあるのが普通ですから、危険な死角になります。
どうか皆様、安全で快適な旅をなさって下さい。
以下に、私が泊まった小さなお宿の内の幾つかをご紹介します。
イタリー トスカーナ、 15世紀頃の豪農の館
5部屋くらいだと思いますが、この時は私達以外にアメリカ人のカップル一組だけでした。道を挟んで向かい側に管理人の家がありますが、お客の到着と朝食の時以外来ないので、自分の家の様に気ままにのんびりしました。
イタリー ポジターノ (パンフレットの写真ですが、この通りでした)
15室。 断崖絶壁にへばりつく様に建てられ、各部屋からアマルフィの海岸を見下ろせる、元漁師の館
アメリカのB&B
3室 森の中の一軒家。これは家族のリビングルームですが、私達も自由に使わせていただきました。馬2頭とうさぎ、アヒル、犬などいましたが、農家ではありません。
アメリカのB&B
多分6室。個人の大邸宅。遥かに雪を頂いた山々を眺める位置に、露天のジャグジーがあります。
上のお宿のダイニングルーム
ここでホームメイドのマフィンやシナモンロールと玉子、ハム、果物、ヨーグルトなどのリッチな朝食。華やかでサービス精神旺盛なマダムと、物静かで優しいご主人の家です。
イギリス コッツウォルズ゛ (パンフレットの写真)
5室。15世紀には修道院だった建物で今は個人所有。マダムは、お子さん達が大きくなって独立したので、部屋が空いたから宿泊客を受け入れているとおっしゃってました。
上の宿のダイニングルーム
イギリス人の中年カップル2組と同宿。夕食はまず暖炉のある談話室で食前酒、その後準備の整ったテーブルに案内され、皆で一緒に大きな食卓を囲みます。宿のマダムも台所との間を行き来しながら共にテーブルに着き、まさに個人の家に遊びに行った様でした。
左の紳士が、気軽く皆にお代わりのワインやオードブルを配ってくれました。そして食後は三階の広々としたリビングルームで暫くおしゃべり。お子さん方の結婚式の写真など見せて下さいました。
2018年11月追記 この時に出されたオードブル・鱒の燻製とクリームで作ったものは、多少アレンジして、私の料理教室と家の定番中の定番となり、今に至るまで作り続けています。
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香港、バンコク、ジャカルタなど、東南アジアの便は比較的時間が短い上に盛りだくさんのサービスです。時差も少なく、昼間のフライト、お客様は疲れていらっしゃらないので、到着間際まで飲み物が出るわ 出るわ。
団体のおじ様方は私達を「ねえちゃん!」と呼びます。
「ねえちゃん、水割り」
「ねえちゃん、お茶、お茶!」
「ねえちゃん、ねえちゃん、ビール!」 と言うように。
ある時
あるお客様: ねえちゃん、ねえちゃん、ビール!
私: わたくし、ねえちゃんではございません。
そのお客様の周辺: シーン!
私: わたくし、おばちゃんです。
皆様: ギャハhhh!
それから到着まで、あっちからもこっちからも
「おばちゃん、おばちゃん、水、みず!」
「おばちゃん、おばちゃん、お茶、お茶!
「おばちゃん、水割り!」 「おばちゃん、ビール!」
「おばちゃん!」 「おばちゃん!」 「おばちゃん!」
あ~~~あ、ヒーッ"""
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先ず、東京ーモスクワでの大失敗。
私は初めてのファーストクラスの厨房担当です。
当時はモスクワーパリ間で使う食事も東京で搭載していました。使うのは10時間以上先ですから、悪くならない様にしっかりとドライアイスを効かせなければなりません。
ファーストクラスの分厚いステーキは、東京でガチガチに凍結した状態で搭載されます。
モスクワーヨーロッパ間のCAの為に適当な時期にドライアイスを取り除いて解凍しておくのが、東京ーモスクワの厨房担当の重要な仕事です。
さて、飛行機はモスクワに到着。厨房を綺麗に片付け、必要書類を作り、引継ぎのメモも書き、全てを上司に報告して、後は出発の乗務員と会って引継ぎをするだけです。
先輩のお兄様: 「ステーキのドライアイス抜いといてくれた?」
私: 「はいっ!」
実は新米の私は、この質問の意味が分かっていなかったのです。それなのに無責任にも「はいっ!」 と答えてしまったのです。
空港からホテルまでのバスの中で、謎の質問がずっと気になっていました。ステーキは東京からの夕食に出してしまったのに…
そう言えば >_<! 以前に別の先輩がモスクワーパリのステーキの事を注意していたのをようやく思い出しました。
しかしその頃、ガチガチのステーキを発見してギンギンに怒っているであろう先輩のお兄様を乗せた飛行機では、離陸後ベルトのサインも消え、皆慌しく食事の準備に取り掛かっていたことでしょう。
今のように「解凍」キー付きの電子レンジなどない時代ですから、モスクワーパリ、3時間のフライト中にあのお肉は、絶対にお客様に出せる様に溶けはしません。メインディッシュはステーキご希望の方が多いのに…
お気の毒なお客様。 お気の毒な先輩様。 ごめんなさい!
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バンコク郊外 どこまでも続く椰子の林
当時のバンコクのタクシーは、日本で廃車になった車を輸入したものだったと聴きましたが、ポンコツ寸前ではあってもちゃんとエアコンがついて、とても便利な庶民の足です。
メーターがついているものの実際には使わず、お客は乗る前に行き先を運転手に告げて料金交渉をするのです。高いと思えばやり過ごし、納得行けば乗り込みます。日本人の私がいると高い事言うからと、交渉している間「あなたは見えないところ隠れてて!」とよくレックに言われました。
タクシーよりもっと安い「トゥクトゥク」と言うのにもよく乗りました。二人乗りの幌つき馬車をオートバイが引くような三輪の乗り物で、ガタガタ揺れるしうるさいし、決して乗り心地の良いものではありませんが、風を切ってぶっ飛ばすのが面白くて大好きでした。
当時は電車も地下鉄もなく、郊外へ行くには汽車、街中ではバスが公共の乗り物です。バスも解体寸前のような、ドアも窓も閉まらないものに、ラッシュ時には人が鈴なりにぶら下がって乗ります。最初の頃運賃が日本円で5円だったように記憶しています。
1980年代には窓の閉まる、エアコン付きのバスが走るようになり、とても快適になりました。
彼女たちと少し遠出するには、たまにお父さんの車で連れて行ってもらえる時以外は、これらの乗り物を利用しますが、バスの時はいつも「お財布気をつけて!」と言われました。
縦横に張り巡らされた運河 貧しい人々には生活の場です
仏教徒が国民の95%を占めるタイでは、街中にも沢山の寺院や仏塔がありますが、どこでも土地の人々と様々な供え物、ろうそく、線香で大変賑わっていた光景を思い出します。
寺院の庭
寺院の内部
日本でも家に神棚や仏壇があった様に、また、庭にお稲荷さんを祭っている家があった様に、レックたちの家にはもちろん、多くの店やレストランにもタイ式の小さな仏壇がありましたし、庭のある家や会社はほとんど全てに外用の仏壇が立てられていました。
レックたち一家も敬虔な仏教徒です。彼女たちは街に出る時、乗り物の中からでもこれらの寺院などを見つけると、必ずそちらを向いて手を合わせていました。
私がレックとその家族に最後に会ったのは、1990年に夫と一緒に行った時で、一週間ほど家に泊めていただきました。その頃は二人とも外資系の企業のOLとして働いていましたが、わざわざ休暇をとって迎えてくれたのです。その後は家族で遊びに行く機会もないまま、たまに手紙をやり取りするだけの関係になってしまいました。
その頃以後のタイは、学生運動、革命、通貨危機、そして最近の政界のスキャンダルなどに揺れながらも、経済発展を続けているように私は遠くから感じているのですが、私が出会った大勢の穏やかで謙虚な人々の生活も、経済成長と共に慌しくなって行っているのでしょうか。
郊外の住宅地 右はレックの家
仕事を通じて出会った人々の中で、今、最も会いたい友だちはレックとマユリーです。
]]>私はイタリアオペラが好きです、大好きです。生まれ変わった絶対にオペラ歌手になります。
そして、私はマリア・カラスを深く深く敬愛しています。
1958年ロンドンでの「椿姫」
そのマリア・カラスが私のフライトに乗って来日したのです!
1974年の10月、マリア・カラスは韓国・ソウルから日本へ入りました。ワールドツアーの最後の国が日本だったのです。既にオペラは歌わなくなっていた彼女ですが、ジュゼッペ・ディ・ステファーノと共に、リサイタルのため来日したのです。
日本国内で5都市、7回公演しましたが、11月11日の札幌が記録されている限り彼女の生涯の最後の公式舞台となりました。
51歳、亡くなる3年前のことです。
1955年ミラノでの「ランメルモールのルチア」より
その頃の私は、暇さえあれば、分かりもしないイタリア語のリブレットを見ながら、家ではLP(!)で、ウォークマン(!!)出現後はフライトでの滞在先でも彼女の歌を聴いていました。
当時の東京ーソウルのフライトは、今のこの路線からは考えられないほどの、盛りだくさんのサービス内容でした。2時間前後の中で有料のお酒、温かい食事、機内販売…
まだまだ外国のお酒・煙草が日本で貴重だった頃ですから、多くの方が食事が下がるのももどかしくお買い物で、免税品販売に本当に時間がかかりました。滑走路が見えてもまだ終わらないと言う危なっかしい状態です。
出発前のインフォメーションでVIPとしてMrs. Maria Callas とMr. Giuseppe Di Stefano の名前が知らされた時、わが耳を疑いました。
エコノミークラスの一番後ろ担当だった私ですが、ファーストクラスのお二人に会わずしてこのフライトを終えるわけには行きません。
結局、到着直前に、ほんとにお顔を拝見するだけの時間抜け出してファーストクラスに行ってしまいました。一番前の左側のお座席で、お二人ともリラックスしたご様子、上機嫌でいらっしゃいました。上機嫌でいらっしゃる事に満足して、私は幸せな気持ちで一番後ろに帰りました。そしてそれ以上何も無いまま、フライトはあっけなく終わってしまったのです。
あ~ぁ 私がもう10年早く生まれていれば、一度くらいは実際のオペラの舞台を見る事が出来たかもしれないのに~~
]]>飛行機事故は離着陸時が圧倒的に多く、その場合突発的です。マニュアルを探したり、機長やチーフの指示を待つ時間など無い事が殆どです。ですから新人であっても瞬時に自分の判断で行動しなければならないし、そこに大勢の方々の命がかかっているのです。
「ある日のフライト」の次にはこのテーマで書こうと準備していましたら、たまたま中華航空の事故です。
ニュースでも「90秒で全員脱出」と言っていましたが、着陸してターミナル前まで来て、誰もが無事到着!と、ほっとした瞬間の出来事です。各ドア担当のCAの一瞬の的確な判断と、パニックになりながらも先を奪い合わなかった乗客の皆さんの連携プレーの勝利でしょう。ちょうど翼(つまり燃料タンクとエンジンがあり、一番火の出易いところ)の上にも非常口がありますが、これを開けなかった事も正解でした。(この非常口は火の手の上がらない事が確認されている、不時着水の場合などに有効なのです)
前置きが長くなりましたが、今日のテーマは救難訓練です。
全ての航空会社が、乗員の救難訓練に多くのエネルギーを注いでいると信じていますが…
これだけは、実際に何度も経験して技量を磨くなんて言うことが出来ませんから。
各社知恵を絞っている様ですが、私達の場合には、一人前になってからも毎年二回訓練とチェックを受ける事が義務付けられていました。もちろんとても厳しいものです。講義の後、たくさんある実際の緊急機材を使って、各自が正しく作動させられるかチェックされます。そして仕上げは緊急着陸と着水のシュミレーションです。飛行機と同じに作った部屋で教官から与えられられた設定に基づいて、全員が地上または海に見立てたプールに脱出して無事機体から離れるまでを、与えられた時間内に正しく行わなければならないのです。爆発音や煙まで出ますから臨場感満点で、訓練と解っていてもいつも心臓がドキドキします。
そして毎回のフライトでも出発前に確認がなされます。
フライトの安全を真剣に考える会社は、利用しないで済むのが最も望ましい事である緊急機材や訓練に多大な費用と時間をかけるのです。
私がスチュワーデスを辞めた時、「これで救難訓練から解放された!」と思ったら本当に心が楽になったのを覚えてます。
普通、航空会社の宣伝に登場するのはニコニコと優しそうなスチュワーデスに、冷静で凛々しそうなパイロットですね。でも私は航空会社で最も重要な職種を一つ挙げろと言われれば、それは整備士ではないかと思うのです。乗員はこのように訓練を受けますが、訓練の成果を永遠に示すチャンスが無い航空会社が、最も良い会社ですよね。それには飛行機が設計段階から完璧に作られている事はもちろんですが、エアラインに引き渡されたあとのメンテナンスは整備士の出番です。乗員・乗客は、何事も無いときには表面に出ることの少ない彼らに命を託しているとも言えるのです。
それにしても、今回の事故ですが、今後同じような事故の発生を防ぐために、原因が正しく究明され、有効な対策が立てられる事を切に願うものです。
安全は当たり前の前提ですから宣伝にはならないかも知れませんが、食事より、ゆったりした座席より、安全にかけるエネルギーを競い合う宣伝って無いかしら。
私の夢想
豪華なホテルのような内装、ゆったりと寛げる座席とラウンジ、世界のグルメを
うならせる食事、何くれとない、けれどうるさくなく、さりげないCAのサービスの
≪超ファーストクラス≫ と、食事なし、飲み物なし、新聞・雑誌なし、映画・
オーディオなし、笑顔なし、CAはヘルメットに安全靴、難燃性のトレーナーが制
服の屈強な若者が最低人数居るだけの、≪超安クラス≫ の二通 りを運航している
エアライン。もちろんどちらも安全性は完璧。
こんな二極分化にならないでしょうか?
私が乗るのは後者ですけど…
]]>私の記憶の中のバンコクは「静」と「動」、「聖」と「俗」がお互いを干渉せずに同居している、静止画と動画が一幅の絵の中に納まったような空間です。
広い空と、西日を受けて光り輝く寺院の屋根、すぐ隣りにはすさまじい喧騒の大通りや市場。
排気ガスとクラクション、ドリアンと椰子油の臭い、スピーカーから流れる大音量の音楽。
さて、1987年に戻り、フライトで疲れた体でその絵の中に再び入って行きましょう。
バンコクのドンムアン空港は町から遠いので、ホテルに着いたらもう5時半です。部屋に荷物が届くや否やシャワーを浴びて私服に着替えます。大きな窓にかかったカーテンを全開にしてベッドカバーの上に大の字になったまま、しばらくの間茜色に移り行く空を眺めていました。
皆と夕食に行きたい人は、6時半ロビーに集合です。ここの料理は大勢いた方が楽しいから、私も一緒に行くことにしました。
ロビーに下りて来たのはキャプテンやチーフや、合計6人。残りの人は疲れてしまって、ホテルのコーヒーショップで済ませるのでしょう。
歩いて10分位のところにあるクルーがよく行く店、タイ料理と中華料理を混ぜた様な、安くて美味しい庶民的な食堂に、今回も行きました。
メニューは:緋烏賊の丸ごとカレー揚げ、空芯菜の炒め物、あさりの中国酒蒸し、黄にらの炒めソバetc.飲み物は青島(チンタオ)ビールとグラスに注がれた熱いジャスミンティー。
その後、皆はディスコに行きました。(古い?あくまでも’78年の設定ですから)
私は明日、朝早くからタイ人の友だちと出かけるので、先に帰って寝る事にしました。(長年の友だち、レックとマユリーは、後日改めてご紹介しようと思ってます。)
あしたは一日休みで、あさって日本に帰ります。
そうそう、機長がスケジュールチェンジになり、帰りの344便は急遽キャプテンMになったと連絡がありました。
何かの事情でCAが一人足りなくても(普通は無い事ですが)フライトは可能です。でも機長が一人足りなければ絶対にフライト出来ませんから、きっと明日の午後の便でDHで着くのでしょう。
「Dead Head」 おかしな名前でしょう?乗務の前や後に、ある区間を旅客として移動することをこう呼びます。フライトの大幅な遅れや病気など様々な理由で欠員が出来た場合に必要人員を出発地に送るために、また、乗務から外れる乗員を基地に帰すためにDHします。時には元々乗務パターンに別のエアラインでのDHが組み込まれたものもあり、それは他の会社のサービスを経験できるので、とても勉強になり楽しくもありました。
今10時半、日本時間で12時半。長い一日でした。もう寝ます。
お休みなさい。
]]>
古い記事で恐縮ですが、どうぞ宜しくお願い致します。
ある日のフライトを再現します。架空のものです。
便名:Sunshine Air Lines 345便、
日付:1978年8月17日(金)
時間:午前10:30発 午後3:05着
区間:東京/バンコク
乗務パターン:往 TYO/BKK、345/18、
復 BKK/TYO、344/20
持ち物:パスポート、身分証明書、財布、マニュアル類、制服一式…
個人的な持ち物:あの夏のワンピース、白いTシャツ、ジーンズ、白いサンダル、
サングラス、一応水着、友だちのレックとマユリーにお土産の胡麻煎餅…
1970年代なかばの羽田空港とタイ航空機
今日は久しぶりにバンコク便です。
操縦室は先日香港便でご一緒した山本キャプテン以下3人、CAはチーフの谷口さん以下8名が私のグループのメンバーで、残り5人が隣りのグループの、総勢16人です。
お客様は夏休みですからほぼ満席。
旅客数:ファースト;32、ビジネス;62、エコノミー;257+赤ちゃん2。
飛行時間:6+35、時差-2
サービス:昼食、映画、機内販売、軽食。
飛行高度:10,500m
巡航速度:毎時950km
航路上の天候:おおむね良好。離陸約3時間半後に多少の揺れ。
到着時の予想天気:晴れ、34℃
今日の私の担当はエコノミークラス。離陸前、新聞を配っていた新人スチュワーデスの青木さんが、なにやらキャビン中央で立ち往生しています。
私 どうしたの、青木さん。
青木 はい、こちらのお二人のお客様が、同じ座席番号だっておっしゃるんです。
私 搭乗券拝見して、日付と便名も確認してね。
青木 はい。
お客様、ご搭乗券拝見できますか?
私 あってるわね。ダブルアサインだから、後は私するわ。あなたは新聞続けて頂戴。
お客様、申し訳ございませんが、ひとまずこちらにおかけななってお待ちいただけ
ますか?すぐに調べて参りまして、新しいお席にご案内いたしますので。
座席はコンピューターで管理されていますが、時々このようなミスがあり、地上職員に空席を確認して、そちらにご案内します。(但し、このフライト当時はまだ手作業だったと思います。でもその頃の方がこのようなミスがなかったような気がします。) それからたまに、違う便のお客様が間違って乗っていらっしゃることも!
私が他の航空会社でお客として乗った時、同じケースに会いました。たまたまエコノミークラスが完全に満席だったので、ビジネスクラスにしてもらえたことがあります(^-^) 飛行機では安全上、立ち席と言う訳に行きませんからね~~
離陸の順番待ちで20分遅れましたが、無事に離陸しました。右に真夏の富士山を見、ランチの終わる頃には桜島の噴煙を見、そして台湾の上空を通過して行きます。予想通り3時間半で少し揺れがあり、私達乗務員も座ってベルトをしました。始終飲み物のリクエストがすごく多くて、どのキャビンもてんやわんやではありましたが、トラブルなくあと1時間半で到着、その前に軽食のサービスです。
私 青木さん、45Aのおばあちゃまの入国書類大丈夫?
青木 伺ってきます。
私 もしお持ちでなかったら書いて差し上げてね。
私 チーフ、57列に3時50分発に乗り継ぎの方がいらっしゃるんですが、着陸前にドアサイ
ドにご案内していいですか?
チ―フ そうね、15分遅れで3時20分到着だから、先に降りていただこう。
私 はい、57BとCの鈴木様、お二人連れです。お荷物は黒のスーツケース一個、これがク
レームタグナンバーです。
チ―フ 有難う、地上に引継ぎぐよ。
飛行機が遅れている場合乗り継ぎ出来なくなることもあります。急げば間に合う場合には先に降りていただける様、またチェックインの荷物をすぐに見つけ出せる様にして地上職員に引継ぎます。
望みなしの場合、次の便の手配その他しなければなりませんので、この場合も地上職員の援助が必要です。
お客様はいづれにしても不安があれば、スチュワーデスに相談なさるといいですね。
そうこうしている内に飛行機は、バンコク・ドンムアン空港に到着しました。お客様は全員降機、忘れ物もなし。CAの皆さんも忘れ物しないでね。
ほら、誰かアナウンスの本忘れてる。担当してた小川さんね。
早朝に家を出て、長~い一日でした。みんな、お疲れ様。でもホテルに着いたらシャワーを浴びてシャキッとするわ!さあ、夕食はどこへ?
バンコク チャオプラヤ川のほとりに立つ、暁の寺・ワタルーン(?だったと思うんですが、どなたか教えてください)
~~バンコク滞在記は次回に続く~~
]]>今回は、スチュワーデスの仕事の流れをざっと追ってみます。あくまでも「私がいた頃の、私がいた航空会社の」ですから、時代により、会社により違いがあることをお含み下さい。
一月単位で発表される自分のスケジュールに従って、フライトの出発時間の1時間45分前までにオフィスに行きます。しかし実際はその更に40~60分前ぐらいには着いていて、制服に着替えたり、業務指示文書をチェックしたり、つまりフライトにまつわる自分の用事を済ませます。客室の責任者は、この時間に広い飛行機の中で、誰がどこを担当するかなど決めてチャートを作ります。
1時間45分前に全員揃って打ち合わせを行います。お客さまに関する情報、例えば、人数はもちろん、小児、車椅子や特別食※をご希望の方、VIP、特別のケアーを必要とする方などが知らされます。そして路線の特性や注意事項、今日のサービス内容とサービス方針、到着地の免税基準などの確認、保安に関する知識や動作の確認などを行って、これらを全乗務員が共有します。
それが済むとキャプテンたちと合流して、飛行情報や万一の時の対応などを確認します。
その後出国審査を経て、1時間ほど前には飛行機に乗ります。乗り込んでからは各自の持ち場の保安機材チェック、食事と飲み物の数と内容のチェック、様々な備品と道具類、例えば厨房用品、トイレの備品、救急箱、新聞、雑誌、おもちゃ、機内誌などの搭載と、正常に機能するかの確認をし、使いやすいように可能な限り準備する、etc.etc.
自分の守備範囲を確実にこなす事と、したことを報告する事が求められます。なぜなら、何人もで同じ所をチェックすると言う時間のロスを省き、尚且つ絶対に漏れがあってはならないからです。一旦離陸してしまえば、そこにある物資と人と知恵で着陸まで全てをまかなわなければならないのが飛行機です。もし満席12時間のフライトなかばでトイレットペーパーの予備が無くなったら?これは大変なことです。
※特別食:療養食や宗教上の理由によるもの。例えば糖尿病や高血圧の方の食事、イスラム教徒の豚肉を使わない食事など、色々あります。
そして最後に不審物がないことを確認し、各自のビューティーチェックもして、30分前にはお客様を迎えます。
離陸後は飲み物や食事サービス。今は私も乗客の立場で乗りますから、客席から見ていると皆にこやかにゆったりとサービスしているように見えるのですが、カーテンの陰、調理室では彼女たち髪振り乱して働いていことでしょう。
そして二回目の食事までの間、機内販売、映画の上映、トイレの清掃、次の食事が傷まないようにドライアイスのチェック、入国用の旅客と乗員の書類、機体と貨物及び機内の搭載物品に関する書類の準備、乗客の病気やトラブルへの対応、稀に出産や機内で亡くなるケースもあり、これら全てに対処することがCAの仕事なのです。
機内は老若男女、様々な人種、様々な背景や事情・目的を持った人々の共同の生活の場であり、社会です。大地から1万メートルも離れた大空にぽっかりと浮かぶ、小さな運命共同体です。CAの仕事は、この運命共同体の中にいる全員の生活を安全に、快適に完結させることなのです。
次回は、ある日のフライトをシュミレーション致しましょう。
イタリア ナポリの空
日本の空
アラスカの空
日本の空
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イランは、今でこそ宗教的な戒律を非常に重んじる国ですが、1979年にイスラム革命が起きる以前は西欧化路線をとるパーレビ国王の統治下にあり、テヘランの人々の生活は数日滞在するだけの私の目には、イスラムの国とは思えないほど華やかに見えましたした。欧米のようなファッショナブルな装いの女性も沢山いましたし、チャドル(女性の体全体を覆う黒い布)を着用した女性も裾を翻してカラフルなミニスカートをのぞかせていたものです。 1970年代初め、大学でもオフィスでも当然のこととして女性達が活躍していました。何といっても、アメリカ系のホテルであるシェラトン・テヘランがあって私達乗員はそこに宿泊していたのですから、今の政治情勢からは考えられないことです。バザールでのショッピング、モスクや博物館の見学、観光など、車や徒歩で可能でした。
こんなミニチュアゴルフも出来ました。(1974年)
一方イランの東隣りの国、パキスタンは1947年の英領インドからの分離独立後、カシミールを巡ってインドと対立し、不穏な情勢が続いており、70年代初め当時カラチへは就航していませんでした。(後に就航し、私も何度も滞在しました。)
1971年の秋のある日、私はバンコクからのフライトで到着してテヘランにいました。
翌日、会社から連絡があり、明朝カラチに臨時便を出すので乗務するようにとの事です。それでキャプテン以下10人ほどの一チームが帰りの便のための食事だけ積み、空(から)のDC-8でカラチまで行きました。けれど上空に来てもなかなか着陸しないのです。その理由は後で分かるのですが、ようやく着陸し、満席のお客様を乗せてすぐに出発です。
お客様はほとんどが日本人の家族連れで、欧米の男性も少しいました。皆さん疲労と安堵の入り混じった表情で、中には泣いている方もいます。そして口々に「迎えに来てくださってありがとう」とおっしゃるのです。
この方たちは、少し前に第三次印パ戦争が勃発し、家を捨ててホテルに避難していた駐在員のご家族だったのです。
食べ物はパンしかなく、それも乏しくなりかけていたのだそうです。そして搭乗に先立って、命の保証は求めないと一筆書かされていたのだそうです。
フライトはどうにか無事安全なテヘランにたどり着き、そこから別の便で日本へ帰られました。そして私達乗員は予定のヨーロッパ行きのスケジュールに戻ったのです。
テヘランのホテルに戻ってからキャプテンに聞かされたことは、「銃撃戦が静かになるのを待って合間を縫って着陸したんだよ」。
どうりですぐに着陸しなかった訳です。
その後12月に、東パキスタンがバングラディッシュとして独立したことを、私は新聞で知りました。
2018年9月の追記
上記の文章は、この記事を最初に公開した時、つまり2007年8月(今から11年前に)その時点から36年前(今から47年前)の事を思い出して書いたものです。書いた当時、中東情勢はあの頃から大きく変わったと思いながら書いたものですが、2018年の今、11年前のこれを書いた時点からも世界は激動の連続だと言えるのでしょう。人類はいったいどこに向かおうとしているのか。
また、この時はたまたま近くに居合わせた民間航空会社の一社員でしかない私たちが、会社の指示に従って戦時下にある空港に救出に行ったのです。しかし私はその後、このようなケースでの在外邦人の救出について、日本が大きな問題を抱えていることを知ることになりました。(関心おありの方は Wikipediaの「イラン・イラク戦争 」の項の 「3 影響 3.1 日本との関連」などをご覧ください。)
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ある日のフライトで、出発時にお客様にはウエーク島に寄ることをご案内してはあったのですが、いざ着陸すると一人のお客様が給油のためだと言うことを信じて下さいません。絶対に機体に何か不都合があって不時着陸したのだと言い張ります。説明すればするほど、事実を隠していると思うもので、安心していただくのに大変でした。
70年代初めと言えば、関東の私の周辺にはスーパーマーケットはありましたが、普通はカートではなくバスケットでの買い物です。そして古くからの商店街が、肉屋さん、魚屋さん、八百屋さんなどで、まだまだにぎわっていた頃です。
しかし、初めて行ったホノルルやサンフランシスコには巨大なスーパーがあり、人々が車でやって来ては今の日本のスーパーのカートよりはるかに大きなものに山盛りの生活物資を買って行くのにびっくりました。
その頃日本では アメリカでは
牛乳 180ccのビン クオート(1リット弱)単位の巨大パック
アイスクリーム一人用カップ 〃
卵 1個単位 1ダース入りの箱
肉 100gとか50gとか ポンド(lb≒450g)単位
大きな塊や鶏一羽当たり前
グレープフルーツは都心の高級果物店に麗々しく並んでいる以外見たことありませんでした。アボカド無し、ズッキーニ無し、ハーブ無し、マッシュルームは缶詰、ワインと言えば一般には甘い赤玉ポートワインの時代です。
1ドル=360円ですから、円に換算してしまうとハンバーガー一つ買うにも勇気の要る私なのに、アメリカ人て皆大金持ちなんだ!と思いました。
私が初めてのフライトで買ったものは、日本ではまだ憧れだったテフロンのフライパンです。
先輩に「若いうちにこう言うもの買うといつまでもお嫁に行けないのよ」と言われました。多くの女性には寿退社があこがれの時代だったんですね。
でもその故か、実際私は40少し前まで独身でしたわ。
2018年の今の追記:
若き日に私を驚かせたアメリカのショッピング事情ですが、今こうして見るとアメリカの単位に驚くより、昔の日本のささやかさに驚きますね。
若い方には、卵を一個単位で売っていた時代があったなんて、考えられないでしょう?
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ところでこの職業の呼び名ですが、ここにも時代が反映されていると思うのです。
スチュワーデス→キャビン(又はフライト)アテンダント→CA。
実際には男性の客室乗務員も沢山いるのですが、女性の職業の典型として昔からあった名前がスチュワーデス、看護婦さん、保母さんetc.
古めかしいスチュワーデスと言う名から、なんとなく新しい響きのエアホステス(空の女主人・「お客様」に対して「お迎えする側」)と言うことが一時ありましたが、定着しませんでしたね。
そして女性が今までの典型的な職業から抜け出し、様々な分野で広く活躍する時代になって、性別を特定しない職業名、看護士、保育士などと同様、キャビンアテンダントへ変化しました。そしてあわただしい現代、なんでも短く縮めてしまう時代にその頭文字をとってCAとなったのでしょう。
それぞれの呼び名の普及には、テレビドラマも大きく影響していることでしょう。
CAは内部では昔から職種を表すのに使われていましたが、業界用語をそのまま巷でも使うと言うのも近頃の流行ですね。
兎に角私が飛んでいたのはスチュワーデスの時代ですので、ここではその呼び名を使うことにしました。
因みに日本語では客室乗務員(パイロットは運航乗務員)。
キャビンアテンダント cabin attendant とは客室のお世話係。そして中国語では空中小娘(日本語式に読むと「くうちゅうこむすめ」)、男性CAは空中飯盛男(同じく「くうちゅうめしもりおとこ」)、と呼ぶと言うのが仲間内での定説でしたが、私は中国語が話せませんので、真偽のほどは分かりません。そして自分達ではとび職=飛び職とも呼んでいました。
それにしても21世紀の今、ブログを書くとわかっていたら、それなりの写真を少しは撮っておいたのに…
ロンドン ヒースロー空港着陸間際
後年夫が撮った写真です。